組歌「四季」は、1900年瀧廉太郎が21歳の時に出版された。 楽譜の序文には瀧自身の言葉で「最近では日本でも音楽が盛んになり、 歌曲もたくさん作られてはいるが、これらの多くは教育用の唱歌であって、 質の高いものは非常に少ない。私はこの現状をなんとかできるほどの楽才が あるわけではないが、日頃からこれでは良くないと思っていたので、 これまでやってきたこと、つまり日本語の歌詞に作曲したものの中からいくつかを 発表して、日本音楽の発展に役立ちたいと思う」と意気込みを語っている。 「春」にあたる「花」の当初のタイトルは「花盛り」。第3曲「月」、第4曲「雪」と 合わせるため「花」にしたという。東京音楽学校に赴任直後の武島又次郎(羽衣)が 書いた詩に、同校助教授だった瀧が曲をつけたもの。 日本人の手による歌曲の第一号であり、また、合唱曲第一号。 「夏」にあたる「納涼」は、和歌山県出身の東くめの詩によるもの。 富山湾一帯を表す歌枕「有磯海(ありそうみ)」が歌詞に出てくるあたりから、 小学生時代に2年間過ごした瀧の富山県での思い出が歌われているとも言われる。 東くめと瀧はコンビを組み、1901年に「幼稚園唱歌」を出版。 わが国初の口語歌詞童謡「鳩ぽっぽ」、「お正月」、「雪やこんこん」などを 世に送り出している。 「秋」にあたる「月」は、瀧自身の作詩によるもの。 明るくも寂しい月を見上げて物思いに耽る心情が歌われている。 「冬」にあたる「雪」は、国文学者であり、歌人であり詩人の中村秋香(あきか)に よる詩。この曲もまた、自然豊かな富山県で過ごした頃を思い起こして作られたと言われている。 瀧 廉太郎 たき れんたろう(1879-1903) 明治の西洋音楽黎明期における代表的な音楽家の一人。 東京の上級武士の家柄である瀧家に生まれる。 父の仕事の関係で生後間もなくから各地を回る。 1894年15歳で東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学、 1898年に本科を卒業研究科に進む。 代表作である『荒城の月』は、『箱根八里』と並んで文部省編纂の「中学唱歌」に掲載された。 1901年4月、日本人の音楽家として2人目にドイツのライプツィヒ音楽院に留学するが、 わずか2ヶ月後に肺結核を発病、1年で帰国。その後父親の故郷である大分県で療養していたが、 1903年6月29日に23歳の若さで死去した。 |
衣装ギャラリーGallery4の衣装は、男声は、黒のワイシャツに黒のズボン。女声は、黒のスカートに黒のブラウス。 そして楽譜カバーは、美しい花の模様が散りばめられた和紙によって作られたカバーです。 楽譜カバーは、中の楽譜が取り外し可能で再利用まで考慮して衣装係が用意した逸品です。 |